浄土真宗本願寺派 瀧上山 善立寺

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住職の法話

見出し画像 「住職の法話」
第十四代住職 松岡 文昭の法話風景画像

逃げても背いても

浄土真宗の御本尊(ごほんぞん)は何という名の仏さまですか?。答えは阿弥陀如来(あみだにょらい)といいます。では、阿弥陀如来という仏さまはどんな仏さまですか?。答えは摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の仏さまです。

その阿弥陀如来について、親鸞聖人は和讃(わさん)の中で、『十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし摂取(せっしゅ)してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる』と、つまり、すべての世界の念仏称(とな)える人々を摂(おさ)めとって捨(す)てる事がない仏さまこそ阿弥陀如来であると示されています。

ところで、平成24年11月4日、住職継職奉告法要の記念法話を川村妙慶(みょうけい)さんにお願いしました。その時に妙慶さんから、1冊の本をプレゼントしていただき、あれから早くも3年が過ぎ、ふと、その本を手に取ってみました。その中に『摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)』という章があり、阿弥陀如来のお心をいただく、分かり易いたとえ話がありましたので、皆様にもお裾分(すそわ)けしたいと思います。

物理学者のアインシュタイン博士が来日されたとき、ある真宗の僧侶に「仏さまとはどんな方ですか?」とたずねました。すると僧侶は、「姥(うば)捨(す)て山(やま)」の話を始められたそうです。

食糧事情の貧しかった時代、一定の年齢に達した年老いた親を山の中に捨てるという、悲しい歴史がありました。村の決まりですから、そむくことはできません。

息子は母親を背負い、いくつもの山を越えて、人里離れた奥深い場所へと向かいます。そしていよいよ別れのとき、母親が息子に「おまえはこんな山奥まで来たことはないだろう。迷わず家まで帰れるか?」とたずねました。

「私は背負われながら来る道すがら、手を伸ばして木の小枝を折っては、下に落としておいた。だから通ってきた道には必ず小枝が落ちている。もし別れ道で迷ったら、小枝の落ちている道を選んで行くがいい」と言って、わが子に手を合わせました。

まさに今、自分は捨てられようとしているのに、それでもわが子を見捨てることができない。まさしく仏の心です。これが摂取不捨(せっしゅふしゃ)。

つまり、母は自分の事より息子の事を心配している。しかも、息子に手を合わせている。その母の願いは、無事に家に帰り着ける事、元気で幸せに過ごせる事、そんな願いであったに違いありません。

昔の人は、阿弥陀如来の事を「親(おや)様(さま)」と言って親しみ、尊ばれていました。それは、無償(むしょう)の愛をそそぐ母親のような存在。逃げても背いても包み込んでくれる、絶対に見捨てる事のない存在。そのような親心と阿弥陀如来の大悲(だいひ)を重ねて、親様と大切にしてこられたのです。

たとえ仏法に背いた生き方をしていても、念仏のご縁に出遇(であ)う時がある。悲しみのどん底で念仏のご縁を喜ぶ身となる事もある。それは摂取不捨(せっしゅふしゃ)の阿弥陀如来の親様が、念仏称える私たちの中にいてくださるからなのです。

(住職 松岡文昭)